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2011年11月30日水曜日

第30回プレクシャ・メディテーション研究会のご案内

第30回プレクシャ・メディテーション研究会を下記のとおり開催いたします。
ふるってご出席下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。

日時:2011年12月5日(月)19:00~21:00
場所:市川市南行徳
東京メトロ東西線南行徳駅下車、徒歩1分
アクセスマップにつきましては、下記URLにてご確認ください。
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/gyotoku/m_mapprak.html

テーマ: 「レーシャ」とは何か、レーシャ・ディヤーナとはどのような
瞑想法か

前回は、実際にチャイタニヤ・ケンドラ・プレクシャを行いながら各「ケンド
ラ」の生理学的および哲学的意味と効果を確認しました。通常の誘導よりも説
明的でしたが、内容は頭には入りやすかったのではないかと思います。

次回はこうした「ケンドラ」の理解を前提に、レーシャ・ディヤーナ(霊的色
彩光の知覚)を扱います。レーシャの概念はプレクシャ瞑想の中で最も難解な
部分です。この瞑想法はプレクシャ瞑想体系の中で「最も重要」と位置づけら
れながら、「他の5つの瞑想手法を完全に理解し習熟していなければ正しく行
うことができないので、レーシャ・ディヤーナを実践する資格はない」ともさ
れています。その意味を検討します。

※準備の都合上、出席される方は必ず前日までに出席のご連絡を中村までお願
いいたします(savita.nakamura@gmail.com)。ご連絡をいただかないと、
資料を受け取れないことがあります。
※当日参加費として500円(非会員の方は1000円)(通信費・会場費・資料代
等を含む)を頂戴いたします。

【今後の研究会開催予定(来年の予定)】
・2月6日(月)19時~21時 場所:市川市南行徳
・3月5日(月)19時~21時 場所:同上
・4月2日(月)19時~21時 場所:同上
※プレクシャ.メディテーション研究会は、原則として、毎月第1月曜日に開
催しています。

※本研究会の開催予告(速報版)は月刊メールマガジン
『[プレクシャ・メディテーション]-勝利者の瞑想法』(日本プレクシャ・ディヤーナ協会)
にてご確認いただけます。講読(無料)をご希望の方は、こちら
http://archive.mag2.com/0001262370/index.html)からご自由にご登録ください。

※会員割引による研究会への参加をご希望の方は、協会ホームページ
http://jp.preksha.com/preksha/member.htm)よりお手続きください。

2011年11月25日金曜日

シリーズ[知識と叡智]


人生の転換期に、深く心に刻まれる詩や小説に出遭うことは幸運である。少年
期から青年期へ向かう頃に感じた恐ろしいほどの孤独。その孤独感が自分だけ
のものではないことを知ったのは、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』であった。
そして人生を半ば過ぎた今、再びヘッセは『シッダールタ』をもって私に強く
語りかけてきた。

「真我(アートマン)はどこに見いだされるのか?『彼』はどこに住んでいる
のか、『彼』の永遠の心臓はどこで鼓動しているのか、各人が自分の中にもっ
ている自我の中、自我の最も奥深い中、不滅のものの中以外のどこにあるのだ
ろうか? ところでこの『自我』は、この最奥のものは、この究極のものはど
こに、どこにあるのか、それは肉でもなく骨でもない、それは思考でもなく意
識でもない、と最も賢い人たちは教えた。では、どこに、どこにそれはあるの
だ? そこへ、『自我』へ、自分自身へ、真我へ到達するために、別の道が、
求めがいのある別の道があるのだろうか? ああ、この道を示した者は誰もい
なかった。その道を知っている者は誰もいなかった。[中略]たしかに神聖な
経典、[中略](奥義書)の多くの詩行が、この最も内奥のもの、究極のもの
について語っていた。すばらしい詩句であった。『汝の心[高橋健二訳では
「魂」]は全世界なり』とそこには書かれていた。そして人間は、睡眠中、深
い眠りの中で、彼の最内奥へ入り、真我の中に住むのだと書かれていた。
[中略]無数の世代の賢いバラモンたちによってここに集められ、保存されて
いる厖大な量の知識の成果は決して軽視されてはならなかった。-けれど、こ
のこの上なく深い知識を、ただ単に知り得ただけでなく、生きることに成功し
たバラモンはどこにいただろう、そういう僧侶、賢者、あるいは贖罪者はどこ
にいただろう? 真我の中に住むことを、睡眠状態から覚醒状態へ、日常生活
へ、いたるところへ、日常の言動へ、超人的な力で移行させた達人はどこにい
ただろう?」(岡田朝雄訳『シッダールタ―あるインドの詩―』より)

主人公シッダールタ(仏陀とは別人)は、こうして究極の問の解を探しに高貴
なバラモンの地位を捨て沙門(苦行者)の生活に入る。そして沙門たちの下で
自我を解脱するための多くの方法を学ぶ。苦痛による自己離脱の道、苦痛・飢
え・渇き・疲労を受け入れ克服することによる滅我の道、瞑想によりあらゆる
観念から感覚を空しくして滅私する道、思考によってすべての表象を意識から
滅却することによる解脱の道を学んだ。が、それでも答えを見つけられず、問
う。「瞑想とは何だろう、肉体の離脱とは何だろう、断食とは何だろう、呼吸
の停止とは何だろう? それは自分自身であることの苦しみからのしばしの逃
避にすぎない、生きることの苦痛と無意味さに対するしばしの麻痺だ。
[中略]けれど涅槃(ニルヴァーナ)に達することがないだろう。[中略]私
たちは慰めを見いだす、私たちは己を欺く技術を覚える。けれど最も大切なも
の、道の中の道を私たちは見いだすことはできないのだ。」(岡田訳)

シッダールタは覚者(ゴータマ仏陀)にも会った。そして仏陀こそ「彼の生涯
で彼の前に現れた最後の師であり、最後の賢者」であり、「至高の聖者」であ
り、彼の教えに「驚嘆」し、その教えを「反論の余地のない」「完全に明白」
な、「真実である」と認めた。しかしシッダールタは、その覚者からも離れた。
帰依しなかった。「何人も教えによっては解脱を得られない!」と言い放って。

シッダールタが気づいたこと、それは「この世のどんなものについてよりも、
自分自身について知ることが最も少なかった」ということであった。

その後シッダールタは世俗の世界に入り込んでいく。自らを知るため、自らを
経験するために。彼は商売を覚え、金銭欲を知り、財産欲・所有欲を満たす心
を知り、官能を知り、快楽に溺れ、酒を飲み、賭博をやり、権勢を味わい、い
つしか人生の目的を見失い、最も軽蔑していた世界に没入してしまう。とこと
んまで落ちてゆく。自分自身に幻滅し、絶望し、嫌悪し、ついには河に身を沈
めるまでに堕落する。しかしそれでも終わらなかった。もう一度歩み直そうと
したその時に、また煩悩に苦しめられる。自分の子を盲目的に愛し、失う悲し
みを体験し、世俗に輪廻するあまたの苦悩を味わい尽くす。

しかし、こうした堕落と苦悩を自分自身で体験することは必要なことであった。
若いころから戒められ知ってはいたが、その知識を自分のものとしたことはつ
いぞなかった。すべての非聖なるものを自分自身で体験し、そこにある苦悩に
自ら陥ったからこそ、彼は次の段階、仏陀の弟子たちが誰もたどり着くことの
できなかった高みへと昇ってゆく。そして最後には、シッダールタは悟り、時
が実在しないことを認識し、すべてを受け入れ愛する叡智を得ることになるの
だが、その過程と内容はここではあえて触れない(高橋訳も岡田訳も素晴らし
い宝石のような言葉が散りばめられているので味わっていただきたい)。シッ
ダールタは言う。「知識は伝えることができるけれど、『叡智は人に伝えるこ
とができない』。それは見いだすことはできるし、それを生きることはできる。
それに支えられることはできる。それによって奇跡を行うことはできる。けれ
どそれを言葉にして人に教えることはできないのだ。」

書物であれ、偉大な師であれ、それに出遭い、その教えを「知る」ということ
と、自ら実践し、体験し、探求し、気づき、「叡智」を得るということは全く
別物である。今この日本で、私の生活において、私は何のために瞑想を学んで
いるのか。瞑想を学ぶとはどういうことか。その答えは私自身の生活実感の中
でつかみ取るしかない。


<著:中村正人>
(協会メールマガジンからの転載です)



コラム[所有と無所有]


私は人間の幸せというのは、その人が所有している物の、質と量であるとずっ
と思っていた。お金は無いよりあった方が良いし、お金が沢山あるということ
は少ないより自由度が高いのだと思っていた。お金がもっと沢山あればさらに
もっといろいろな可能性が出てくると考えるが、今まで自分がしたいと思った
ことのほとんどをする事が出来て、お金に困った経験はあまりない。若いころ
漠然と欲しいと思っていたものはいつの間にか、ほとんど実現されて手元にあ
る。今、自分の身の回りを改めて見回してみると、あまりにも沢山の物を所有
していることが解る。

親から相続した屋敷は広大だ。庭の手入れだけでも多大の労力と経費が掛かる。
自宅以外に奥会津の只見町には自分の夢を追いかけた結果、5軒の建物を所有
している。この維持費もばかにならない。只見に所有している平坦な土地も数
千坪にのぼる。それらは無駄だといえば確かに無駄である。煩わしいことでも
ある。瞑想センターを中心とした理想郷作りが自分の夢や願いであるから、な
んでこんなに馬鹿な事をしているのかと思いつつ、多大な労力を費やして現在
も実際にしていることである。

若いころから読書が好きだったので私の蔵書は甚大な量になっている。その蔵
書を只見と自宅に分けて置いている。本はなかなか捨てることが出来ないので
今も増えていく一方である。研究の過程で集めた水晶も把握出来ていないほど
の量になる。刀剣や油絵などの骨とう品も数多く持っている。それらの物は全
て過去の私がイメージし引き寄せた物なのだ。カルマが引き寄せたと云っても
よい。なんと欲深い人間なのだろうと改めて自分を客観視している。

私たちは普段、好きなもの素敵な物に取り囲まれて暮らしたらどんなに幸せだ
ろうと考える。素敵な家族、素敵な家と庭、素敵な別荘、車、美術・骨とう品、
宝石等々を追い求めて日々努力している。それが一般的な幸せの価値観だ。そ
れを俗生活という。一方、所有を手放し出来るだけシンプルに気軽に生きてい
こうと云うのが出家生活である。典型的な出家の姿をいまに留めているのがジ
ャイナ教の出家僧である。日本の僧侶のほとんどは所有の生き方なので、出家
でなく俗生活者だ。現代の出家とはホームレスの人達かもしれない。彼らは生
活保護を受けているのではなく自己責任で自由に生きているからだ。

私は年齢と共に所有物が増えて、今ではそれらの管理に煩わしささえ感じてい
る。自己保存本能と自己拡大本能が人間を物の所有に向かわせる。物をいろい
ろ所有してもそれによって、心の平和や幸福、自由が達成できないことがわか
る。だから偉大なる仏陀やジナは所有から無所有への道を歩み始めたのである。
方丈記の鴨長明のように越後の良寛さんのように、ジャイナ教の出家僧のよう
に無一物になれたらどんなに心が休まり平和だろうかと思うことがある。所有
物を必要最小限に整理していく事がやましたひでこさんの提唱する断捨離整理
術である。いらないものを手放し、心を軽く、住環境を清らかにする方法だ。
究極的な断捨離がジャイナ教の出家僧だ。ジャイナ教の出家僧は本当に何も持
っていない。私には出家生活は無理だったので沖先生が云われた半俗半聖の生
き方を目指して今日までやってきた。バランスのとれた生き方をすると云うの
が今回の私の人生のテーマである。俗生活の中で聖・俗のバランスを取る生き
方を心掛けてきたつもりだ。

集まったものは何時か宇宙空間に散逸していく。宇宙空間に働いている力は陰
と陽、プラスとマイナス、収縮と拡散である。所有することは陽であり、プラ
スであり収縮である。無所有、捨てること、手放すことはその反対のことだ。
所有、無所有に良い悪いは無い。悪いのは執着である。持っていても持ってい
ない心であればそれは無所有である。全て物は縁があって預かっているのだと
思う心が捨てている心(捨の心)である。所有物を自分の為だけに使えばそれ
は所有になり、他の人の為に役立つように使えば無所有になる。全てのものは
縁あって帰去来している。手元の物が離れる時期が来て、離れていこうとする
時それに執着するから苦しみがやってくるのだ。無執着と無所有が同義語なの
はそういう意味から理解出来る。私は今、自分が預かっているものをどの様に
縁ある人に手渡していこうかと考える年になった。物の集合離散は考えても仕
方がない事かも知れない。なぜなら縁起していることだから。しかし、出来る
だけ大勢の人の役に立つように手放していきたいと思っている。また、ふさわ
しい人に引き継いでもらいたいと思っている。


<著:坂本知忠>
(協会メールマガジンからの転載です)